スポンサーリンク

大動脈解離からの復活

大動脈解離からの復活

 

もう5年も前のことだが、もはや死ぬまで持っていく持病となってしまっているので、記しておくことにする。

大動脈解離とは

心臓には4つの部屋があって、肺から酸素を取り込んだ血液が左心室から大動脈を通って体全体に送り出される。静脈が体中を回って戻ってきた汚い血で、動脈が杯で新鮮な酸素を取り入れたきれいな血、と確か中学校の保健体育で習った。

 

その酸素を取り込んだ血液を心臓から体全体に送り出されるときに通る血管が大動脈で、直径3cmほどもあるという。

 

f:id:duketogo13:20181111025613j:plain

 

この大動脈が裂けてしまう病気が大動脈解離だが、5年前の夏、私は突然の激痛に襲われ、救急搬送された。

突然の激痛

忘れもしない、2013年の夏の甲子園の決勝の日だった。特に甲子園に思い入れがあったわけではないが、決勝戦の日ということで今でも覚えている。今でも毎年夏の甲子園決勝の時期になると思い出す。

 

午前3時ごろまで、ベッドの中でスマホでゲームをして遊んでいた。そろそろ寝ようかと思ったとき、突然の激痛に襲われた。みぞおち付近が痛く、脈に合わせて奥歯も痛んだ。これはヤバいと思ったが、自分で救急車は呼べそうもなかったので、家の中を這いながらなんとか家族を起こして、救急車を呼ぶように頼んだ。

尿管結石も味わった人にしかわからない痛みと言われるが、この大動脈解離もかきむしられるような耐え難い激痛が続く。この病気になった人ならば、なんでもいいから早くこの痛みを止めてくれと誰もが言うはずだ。

 

救急車がどれくらいで到着したかは覚えていないが、ストレッチャーに乗せられて救急車の中でとにかく痛い、痛いと口にしていた。

近くの大きな病院に搬送され、検査を(おそらくCT検査だったと思う)されたのだが、病院で救急車のストレッチャーから移される際に、よくドラマとかでやっているように

「イチ、ニイ、サン」と掛け声をかけていたのを聞いて、「ああ、あの場面に私がいるんだ」などと他人事のように思っていたのを覚えている。その病院で大動脈解離と診断されたが、手術ができないと言われ、別の病院へ運ばれた。

緊急手術

近くに受け入れてくれる病院があり、その病院が全国でも有数の大動脈センターを有している病院であったことは、ラッキーだった。2つ目の病院に運ばれたのは、朝6時くらいだったと記憶している。その後、手術をする朝9時ころまで待たされた。

 

親族は全員集められ、体温を下げて手術を行うという説明を受け、助からないかもしれないと言われたという。手術時間は8時間半だったか9時間半だったか忘れてしまったが、その日の夜20時ころまで病院の控室で待っていたという。

 

集中治療室

 手術の後、気が付いたら集中治療室のベッドに横たわっていた。口には管が入っていてしゃべることもできず、身動き一つ取れない状態だった。

挿管された管が外れるまで、のどが渇いて無性に水が飲みたくて、先生や看護師が来るたびに、水が飲みたいと紙に書いて訴えていたのを覚えている。その時は減量中のボクサーはこんな気分なのだろうと思っていた。

 

集中治療室には5日間入っていたのだが、麻酔が切れて、口の中の管が外されても集中治療室では何もできないので、楽しみは食事くらいだった。本を読んだりすることもできず、寝ているか食事をしているかしかできない集中治療室は、術後1日は動けないので不便とは思わないが、しばらくしてて立ち上がれるようになると、つまらないことこの上ないところだった。

 

みぞおちとおへその間には血を抜くためのドレーンチューブが何本か刺さっていて、トイレはカテーテルで排出していた。集中治療室に入った当初は、一人では起き上がれないくらい弱っていた自分に驚いた。

1回目の手術では臨死体験のようなものは一切なかった。2回目の手術後は、臨死体験ではないが、集中治療室にいた時、夢の中で厳島神社の鳥居が走馬灯のように頭の中をぐるぐる回ったことがあった。もちろん、術後回復したあとで、厳島神社に行ってお礼参りをした。

 

一般病棟とリハビリ

一般病棟にいくと4人部屋になった。廊下を歩いたり、体操や自転車のリハビリを行ったが、苦しかったのは声帯が麻痺して声が出なくなったことだった。

お笑い芸人のスリムクラブのかすれ声みたいな感じで、力を入れて裏声でしゃべらないと声が出なかったのはきつかった。声は今でも出にくいので、今さらだが反回神経麻痺の手術をしようかと悩んでいる。

また、数分で治るのだが、筋肉痛というか、全身の筋肉がじわじわと痛くなることが度々あった。今でも年に1~2回痛くなる時がある。

 

退院とリハビリ

約1か月で無事退院したが、職場復帰には程遠く、1か月の自宅療養となった。

散歩によるリハビリがメインだったが、手術直後は腹筋が1回もできなかったが、体力はすぐに回復した。

 

大動脈解離と関係があるかは不明だが、入院中にめまいでふらついたことがあり、脳のMRIを撮ったことがあったが異常はなかった。このめまいは、退院後も月に数回程度の頻度で発生することがあり、脳のMRIをもう一度撮ってもらったが異常はなかった。

 退院した後、1か月の自宅療養ののち職場復帰を果たし、半年後にはバイクで京都に行けるほどに回復し、軽い登山もできるようになったが、歩くペースは格段に落ち、登山もコースタイムよりゆっくりと登るようになった。

 

大病になって変わったこと

まず、タバコをやめた。これは1か月入院していたせいもあるが、集中治療室にいた5日間は生死をさまよっていたので、タバコなんて吸いたいと思う余裕もなかったことが大きい。

大動脈解離の直接の原因はわからないと言われたが、タバコと塩分取りすぎが原因の一つなのは間違いないので、塩分には気を付けるようになった。

具体的には、病気になる前は週3~4でラーメン(カップラーメンではない)を食べていたが、週1回以下に減らし、汁は全部飲まないようにした。味噌汁はあまり飲まなくなり、漬物はほとんど食べなくなった。また、インスタントやレトルト食品の食塩量を意識するようになり、飲まないよりはいいだろうと、野菜ジュースを飲むようになった。

 

まさかの大動脈瘤

 

f:id:duketogo13:20181111042543j:plain

退院後の半年検診でCT検査を行ったが、大動脈瘤があると言われた(上写真)。

すぐ入院検査となったわけだが、緊急手術と違って、準備をして臨む手術は先生の説明からも安心感が伝わってきた。ただ、私の場合は、2回目の手術ということで、癒着の度合い次第では人工弁の可能性もあると言われていたので、術後目を覚まして説明されるまでドキドキだった。

 

人工弁になると、障害者1級になると言われ、不謹慎ながら多くの優遇措置が受けられるのも悪くないかもと覚悟はしていたが、弁置換はしないで済んだと聞いてホッとした。弁置換するなら機械弁でとお願いしていたのだが、血液をサラサラにする薬を飲み続けることのデメリットはあまりにも大きい。

 

費用について

 

f:id:duketogo13:20181111150659j:plain

健保組合からの通知書では1回目が800万くらい、2回目が300万くらいだったと思うが、限度額適用認定証のおかげで、自己負担額は1回目が30万くらい、2回目は20万くらいだったと思う。また、1回目の救急で運ばれた病院にも3万以上払った。

 

現在の状況

 

2回の手術を終えたわけだが、医師からは「まだ下行大動脈に解離が残っている、これは死ぬまで大丈夫かもしれないし、半年後に手術が必要になるかもしれない」と言われている。直径が50mmを超えるようなら手術を検討するそうだが、今年の3月の検査では44mmだったと記憶している。少しずつ膨らんでいるような気もするが、気にしてもどうこうなるものではないので、あまり気にはしていない。

 

救急搬送からもう5年が経つ。

昨年は1日かけて横浜からバイクで鹿児島まで行ったりもした。

今年は、初めて富士山にも登った。北海道ツーリングも2年続けて行っている。

羅臼岳にも登ったし、利尻山にも登った。また来年もどこかの山を登りたい。